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教会基礎:キリスト教・カトリックの結婚観

 キリスト教における結婚の意義深さは、一般社会の、一組のカップルが出会い、愛が深まり、共に人生を歩む、のみにとどまらない。聖書(旧約・新約)の中で、結婚は、それが人類の営みとして世界のドコデモ、いつの時代にも、変わらず身近に備わっている主題であるがゆえに、そのイメージはさまざまに展開される。


<唯一の神と人間との間柄>

 キリスト教は異なる三つのペルソナ(位格=異なるありよう)にして唯一なる神を信じる。それ以外の何者をも神と呼んで信じてはならない、そのような別の神は存在しない、と告げる
 。例えばそれは、「人は、神とマンモン(財貨・カネ)と、二人の主人に仕えることはできない」とイエスは語る。これは、騎士道のヨーロッパでも武士道の日本でも、よく理解できるだろう。日本では、武士は二君に見(まみ)えず、という言葉がある。忠誠を誓う主君はただお一人、同時に二人の主君のために働くことはできない、といった意味である。見えず、は殿様に謁見するために招かれることである。
 唯一の神と、この私が、一緒に救済計画に携わるとなれば、ほかの監督のもとで行われる別のプロジェクトに関わることはできない。この唯一の神と、この私、あるいはこの人類共同体の、間柄を、「結婚」になぞらえているのがキリスト教である。


<唯一の神の似姿だから一夫一婦制>

 それゆえに、逆説的に言えば、結婚とは、この私が、全生涯をかけて仕え、この身も心もすべてささげてもよい「唯一の相手とだけ結ばれること、なのである。心に決めて、結ばれたからには、愛し尽くして(もしも、相手が沈黙を必要とするならば、無言で見守るのも自らの愛とすることができるほどに)、たがいの人生の最期までを伴侶とすることができるように、努力し続け、折々にたがいを確かめあいながら生きていく。結婚とは、そのような意味であると、キリスト教は位置づける。
 唯一の神を信じるから、その似姿として人は、ただ一人のパートナーとのみ結ばれる。一夫多妻、一妻多夫、多夫多妻(合同結婚)などは、キリスト教の結婚観ではないのである。そんなことを認めたら、キリスト教は多神教にならざるを得ないのだから。


<結婚だけが神の招きではない>

 あくまで、神と人類との、愛によって結ばれる関係を表すために、最も身近で多くの人が理解しやすい「結婚」のイメージが、聖書において使われている。
 これを逆にとらえてはならない。結婚「こそが」、神と子の私を結びつける信仰の生き方である、などと決めつけるのは、神を前におこがましい考え方である。「水が集まって、川となる」と言えたとて、よもや、川をくだいたものが水である、とは決めつけられないように。
 武士道に戻れば、殿様のお目にとまり、拝謁の間に呼ばれて、武士はハラを決めることができる。この主君のために、忠誠を尽くしていきます、と応えるのである。このように、主君が招き呼びかけてこそ、武士は応えることができるのが、主従関係である。
 聖書の中で、主なる神が呼びかけて、それに感じ入った預言者(神の言葉を預かる人。「予言」ではない。)たちが応えるシーンが、さまざまに描かれている。教会音楽やアフリカ系米国人の魂の音楽としての形式、「コール・アンド・レスポンス call and response」も、聖書を音楽で表現したものである。
 聖書において、イエス自身も独身のままだったし、その母マリアもシングル・マザーとして主の霊によってイエスを懐妊したように、あえて結婚生活を取らずに自らの呼ばれたと感じる生き方を貫いた人たちも少なくない。マリアのように、イエスを身ごもってからのちに、支え愛し合う理解者ヨゼフと出会って、内縁関係(イエスにとっては養父)で、家庭生活を築いた人もいる。
 多くの人々が、神の招きで出会い結婚する社会であっても、そこに独身の人も、内縁関係のカップルも、パートナーを若くして亡くした人も、さまざまに共存しながら、神の救済計画に参加する見本帳のように、聖書の中の登場人物は豊かである。


 これが、キリスト教の結婚観である。一般社会の複雑な結婚スタイルを、キリスト教は細かく批評する立場にないと想われる。特に、キリストを信じられない(よく知らないではなく、明確に拒む)人々は、そもそもにキリスト教の結婚観をも何の説得力を持たないだろう。
 キリスト教が、結婚を一つのとうとい生き方であると肯定するのは、それを実践することを通して、神がこの私、この人間を、いかに大事に思ってくださるかを、痛烈に感じ取ることができる機会であると確信するからである。
 結婚において、キリスト教が一つ求める条件は、創造の神から似姿としていただいている創造力が、結婚する二人にして一体となるカップルにおいて、発揮されていること。逆に言えば、キリスト教として問題視せざるを得ない結婚は、それが政略的だったり、当人たちあるいはカップルのどちらか一方が結婚を強要されている場合、それは神の十全足る招きに応えたものとは言い難いから、反対するだろう。打算や隷属こそは、せっかくキリストが解き放ってくださった原罪のくびきにどっぷり自らつかる行為なのだから。
 なお、ここでは、あえて、カトリックと、プロテスタント諸教会とで、とらえかたの別れる、結婚解消(離婚・再婚)や、セクシュアリティをベースとした結婚の議論(同性愛にある人々の結婚)には、触れなかった。機会を改めて取り上げたい。本稿では、素朴に聖書が語るキリスト教の結婚観の基礎的理解を深めていただくことを念頭に置いた。

田中隆志(からしだねプレス)



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